トーメ・インタヴュー

2009年、トーメ70歳記念に放映されたドキュメンタリー『私がおそらくもっとも得意なこと… ルドルフ・トーメの映画』(1983)収録のインタヴューより。
「小さな村からミュンヘンに出てたくさんの映画を見た。それからボンの大学で勉強し結婚して、お金を稼ぐために詩を書いたが駄目で、映画批評を書き始めた。ホークス映画が好きになったのは、ゴダールの映画が好きで、ゴダールカイエ・デュ・シネマでホークスについて書いている記事を読んで、いっそうホークスに惹かれたからだ。カイエの批評の影響は大きかった。今日でもホークス映画を見ると幸せになる。
私たち(当時ノイエ・ミュンヒナー・グルッペとして知られていたトーメ、ネストラー、ストローブ、ツィールマン、レムケたち)は、単純でシンプルな日常の話を語りたかった、オーバーハウゼン宣言の連中のように、政治的、社会批判的な映画を作りたくないという点で一致していた。『探偵』は、ホークスとダシール・ハメット作品を見過ぎた二人の若者の話。ホークスなどのハリウッド映画をお手本に模倣したというより、ハリウッド映画を人生のお手本にしている人物を描いた作品だ。
シネマスコープ作品『見知らぬ街』では、工事中の地下鉄でまず全員に演技をさせ、それからカメラ位置を決めた。カメラワークを単純にして、カット割りなしてできるだけ全体が見渡せるように撮った。これもホークスから受け継いだもの。しかし、これは私の文学への偏愛とも関係している。小説や詩を長いこと書いていたが、自分には単純な事柄を描きたいという気持ちが強かった。形式を強調し過ぎることは好まない。物事の深い意味などといった典型的にドイツ的なものには関心がない。詩では、日本の俳句やブレヒトが好きだった、あるいはゴットフリート・ベンのアンダーステートメントという概念が。
ベルリンでは生きるためにアルゼナル映画館の運転手として働きながら、低予算で映画を撮ることを考えた。後で回収できるだけの予算で映画を撮ることが重要だった。自伝的作品『メイド・イン・ジャーマニー・アンド・USA』は、脚本なしで、自分の結婚生活の危機について当時の妻が主役を演じるという形で撮られた。私はゲーテの『親和力』をずっと映画化したいと思っていたが、昔風の衣装で撮るのは嫌だった、『メイド・イン・ジャーマニー』の方法を用いてやっと『日記』を撮ることができた。『島の探求』は、劇映画とドキュメンタリーと実験映画のミックス。どんな映画もカメラの前でカメラを意識した人々が撮影されるという点で劇映画だ。純粋なドキュメンタリーはない。隠しカメラで撮ろうと考えたこともあったが、反倫理的だし、映画の中にうまくおさまらなかった。『ベルリン・シャミッソー広場』は、ロッセリーニの『イタリア旅行』の影響で何も起こらない恋愛映画を作ろうとした。お金を回収できようができまいが、この作品はどうしても撮りたいと思った。日常の単純な話を低予算で撮るという出発点に戻ったのだ。
『ベルリン・シャミッソー広場』が左翼映画とは思わない、左翼かリベラルかと言われれば私の思考構造はリベラルなので、それ以外の思考ができないだけだ。私がリベラルと思うことを、人が左翼的と考えることはあるだろう。私は何らかの意見を伝えるために映画を利用するということはしない、私はただ映画を作り、人間を提示する、何かを伝えるために映画や人を不当に用いたりはしない。
ビデオにけっしてできないことは、ビデオは撮ったらすぐに見る、何の魔力もそこにはない、フィルムは、もし朝4時から夜10時まで撮ったとして、それをいま突然スクリーンで見るとそこには信じられないようなもの、魔力のような神秘的なものがある、ビデオはより醒めている、しかたなければビデオを使うが、その場合でもフィルムのような使い方をする、例えば数日経ってから見るとか、そこには時間に対する戦い、大袈裟な言い方だが、死に対する戦いがある、撮影は多くの偶然的要素や即興、細部に関わるものとの仕事だが、後から見るとフィルムにはそれが残っており、しっかりと保持されている。」

http://www.youtube.com/watch?v=5cNyJ59g4NY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=1CDrHyQ9DVA&feature=relmfu
http://www.youtube.com/watch?v=_ZjQjC3MuM0&feature=relmfu
http://www.youtube.com/watch?v=zz9EIv_VlFo&feature=relmfu
http://www.youtube.com/watch?v=c8OlMydaNCo&feature=relmfu