トーメとストローブ

ボンで映画批評を書き始めたトーメは一家でミュンヘンへ引っ越し、1964年にマックス・ツィールマンとともに『和解』を8ミリで撮り始めます。その後、クラウス・レムケの提案により16ミリで撮り直し、ローラント・クリックの短編試写会で「カイエ」のジャン・ドラエとストローブに見てもらいます。「ドラエが何を言うかと、ものすごく緊張していた。だが、彼は試写が終わっても何も言わなかった。そのかわりストローブが、<これはとても良い映画だ>と言ってくれた。当時のぼくらはそれがどんなにありがたいことか、まだわからなかった。しかし、その時からストローブは、来るべきあらゆる危機的状況においてぼくらの友人であり、助言者となった。」
オーバーハウゼンでストローブの友人のネストラーがぼくたちに合流した。そして、少なくとも深夜の試写会で自分たちの映画を上映できるように、共同でビラを作った、いわば新しいオーバーハウゼン宣言だ、それはもちろん既存のオーバーハウゼンの連中に対して、社会的に重要性のある映画をとるべきという彼らの要請に反対するためのものだった。そのような映画は50年代の古いドイツの問題映画の焼き直しとしか思えなかった。ぼくらは、ホークスやゴダールのような映画を求めていた。楽しめる映画。単純かつ過激な映画を。」
1966年、トーメは2本目の短編『シュテラ』を撮ります。これはゲーテの戯曲『シュテラ』の自由な翻案です。「(プロデューサーの)ザイツは撮影が終わってから音を付けるつもりでいた。しかし、ラッシュ試写にいたストローブは、ザイツが悪いと考えていたオリジナルの音がむしろ良いと言ってくれた。FSK(映画自主規制協会)はこの映画を禁止しようとした。大学教授の推薦状によってやっと公開にこぎつけた。ストローブは、初めてこの映画を見た時、目に涙が溢れたと言ってくれた。」
67年、トーメは新しい短編『ジェーンはジョンを撃つ、なぜなら彼はアンとぐるになって彼女を欺いたから』を撮るために、レムケからは『アカプルコ』のネガの残りを、ストローブからはバッハ映画の残りを提供してもらいます。「ダニエル・ユイレと一緒にこの映画を編集した(彼女は素晴らしい編集者だった)。1968年1月半ばに映画は完成し、それと同時に最初の手形の支払い期限が来た。ストローブが、トリュフォーからもらった千マルクをぼくのために出してくれたので、それで手形を支払うことができた。同じ頃、バッハ映画の個人試写会がテアター映画館であった。ストローブはどうしてもぼくの映画をバッハ映画の前に上映したがった。二つの映画は、音楽という点でもすでに合わないとぼくは思っていた。ストローブが言うには、二つの映画は絶対にどこか関係があるとのことだった(少なくとも部分的に同じネガを使っていたが)、結局ぼくが譲ることにした。」
("Formen der Liebe. Die Filme von Rudolf Thome", hrg.v. Ulrich Kriest, Marburg 2010, S.36-39.)