モンテイロの手紙

ジョアン・セーザル・モンテイロのフランスでの初のレトロスペクティヴの際に、ジャック・デニエルの「なぜ映画を撮るのか?」という質問にモンテイロがフランス語で答えた手紙。(Trafic 50, 2004)
「秋の日のヴィオロンのため息の…  1991年9月8日、リスボン
親愛なるジャック、
(…)確かに、ぼくは映画を準備するよりも、ぼくを殺害するための準備により多くの時間を、かなり多くの時間を割いてきた。そして、可笑しなことに、ぼくを殺害することが、ぼくにとって、またその延長で映画にとって、ぼくの映画よりもずっと重要だと考え続けている。いわば、古いソクラテス的信念に忠実であるがために。
かつて、万人の映画というものが考えられた。これが疑わしいものであることはわかっている。ボードレールが言うように、万人のために思考するということは、結局、思考しないということだ。ゴダールはこのことを当初から理解し、沈黙し、生き延びるための戦略として<難解>になった。彼はもちろん殺害されたくなかったのだ。それから、彼はすぐに天才的な解決策を見出した――真の天才であるという解決策だ。それでもかつてはある種の交流があったことは認めなくてはならない、われわれがリスボンで、地方のエピゴーネンとして、パリで作られていた映画――「カイエ・デュ・シネマ」という雑誌の周辺に身を寄せていた賛嘆すべき批評世代の映画――のしばしば出来の悪い<リメイク>を試みていたとしても、それはまったく軽蔑すべきことではなく、むしろ逆である。ところが、それが過ぎ去ったということ、ぼくの理解を越え、ぼくの能力と良き教育の限界を越える様々な理由から(ぼくが偏執狂的に慇懃さに磨きをかけていること、これも新たな事態だ)、この交流がショートさせられ、豆電球がもう点灯しない、あるいはもうないということ、こうして闇の王国が、少なくともぼくにとっては現われた。言うなれば、その時以来、われわれはお互いに背を向けてしまった、そのような状況の中で、ぼくはいつも、そもそも存在しないオリンポス山の神であった。スタイルの問題だ。ぼくが愚痴っぽい泣き虫でも、<涙もろい間抜け>でもないのは残念だ。きみにはスマナイと思うが、ぼくはそれでいい。それにぼくはこれまで一度もチェーン店であったこともない。ぼくはただひとつの耳、傾聴するささやかな注意力でしかなかったのだ。ぼくはさらにこう言うことさえできる――しばしばあまりに知的であったガリア人の美しい乳母の心地よい乳房を永久に失ったことを理解したいまになってやっと、物事は面白くなり始めていると。
いまやわれわれは本当に、みなしご、一文無しとなり、自分の極限の、完全な裸身と向き合っている、初めて目にする裸身である、なぜなら以前は自分の裸身が、この地上で所有する唯一の財産であることを、きみはどうしても認めようとしなかっったのだから。これについてケイロールは実にうまいことを書いた。恐怖。パニックと。どうぞお好きなように(どのみちこれは内輪の些細な話にすぎない)、しかし、いま、この極限性においてこそ、われわれにとって固有なものの予感はあり、映画を撮るという聖なる権利が得られたのだ。
74年のカーネーション革命があった。誰もが映画を撮れるなら、ぼくだってと思った。当時、ぼくは小型キャメラが欲しかった。今日、ぼくは違うふうに考えている。映画を撮るためには小型キャメラさえ必要ではない――自分の頭の中に少しの光があればいい、それだけだ、しかし、当時はほとんどすべての人がぼくに言った、おまえが作った映画は糞だ、おまえには才能がない、さらに(これには我慢がならなかった)、おまえは文章がとても上手いのだから、むしろものを書いた方がいい。ぼくは、もしそれが自分の糞なら、糞を作るのが好きなのだ、才能など糞くらえと、ばかな反論をした、それ以上のことはわからない、しかし、率直に言ってぼくは書生モンテイロが妬ましくなり始めた、だから、新しい芽が自由に映画を撮れるように、彼を殺す決心をした。
ぼくは懐疑的な人々の国に住んでいる。われわれはすべてを疑う、そこには国の存在さえ含まれている。「フランスは存在するのか?」と真剣に問うことのできるフランス人など、ぼくには想像できない。しかし、この国ではしばしば問われるのである。30人の天才(私も含めて)のグロテスクで誇大妄想的な行列とともにあるポルトガル映画―映画史との関係からしてやはり不均斉なものだ―は存在するのか?ポルトガルファシズムは、根底において存在したのか?(この問題について、その時代の真のインテリは政治警察の警官であったと書き始めると、ぼくは気違い病院に監禁されてしまう)。ぼくは一度も生れたことがないのに、それでもこのぼくは、死ぬのだろうか?逆説的だが、人は慰める代わりに、こう言って安心させようとする。落ち着きなさい――8世紀にわたる歴史があなたを見守っている。それについて語り、語ったならば、それはそのすべてが存在する、存在したという証しなのだと。確かにそう願いたい、しかし、この問題に対するポルトガル人の思索は、いまだかつてさほど聡明だったことも、さほど理路整然としていたこともなかった。ぼくらの抱くすべての疑いは、いささか野蛮なものだ。この失寵は異端審問が残虐にもスピノザの両親を焚刑に処そうとした時に始まった。幸いなことに彼らは逃れたが、ポルトガル思想はその時代からだめになった。田園風景の中を牛たちがのうのうと歩き回っているこの国でスピノザが成長し、その思想を体系的に構築することができたなら、腹を空かせたポルトガル人の誰一人受け容れないであろうものが生れたはずなのに。しかしながら、時にはいくつかの商品見本が生産される…みなさんを仰天させるかもしれないが、でもぼくはびっくり箱なのだから、こう言っても許されるだろう、ポルトガルの最も奥深く、実に独創的な映画的思索は、カルロス・デ・オリヴェイラCarlos de Oliveiraとヘルベルト・ヘルダーHerberto Helderという二人の詩人によってなされたと。前者は10年前に死に、後者はまだ存命である。時々会って、酒を飲む。ほとんど会話はない。この告白はきわめて私的なものであることを言い添えねばならないが、しかし、いまこれを口にしてしまったので、もはや内密のものではなくなった。奇妙なことに、彼らはけっして肖像写真を撮らせなかった。肖像写真とは上流社会か警察のものと彼らはずっと思い込んでいた。これは、肖像写真を撮らせる者は魂をも取られるというインディアンの信仰に近いかもしれない。ぼくは逆に偽の肖像写真や、アポリネールのそれのような予兆的肖像画が大好きだ。そうしろと言っているわけではない。誰もが好きなことを自由にやればいい。ぼくには自由なんて糞くらえだ。映画においてさえ。そんな要求をしたことはぼくは一度もない。自由は確かに欲しい、でも、それで何かをするためだ。そうでなければ、完全に糞くらえだ。いいかい、例えば讃歌がある、ぼくのお気に入りで、「祖国の子らよ、行こう」で始まるやつ。どこへ行くんだ?と警戒してしまう。本当に好きな詩だけど、でも、ぼくにも行かない権利があるだろ?つまり、そうなると、少し専制的になる、ぼくは自由の専制が我慢ならないのだ。ヴェンダースのような人たちは、自由でありたいと望むけど(“Arbeit macht frei”)、ぼくは違う。ぼくは労働が嫌いだし(“lavorare stanca”)、何もいらない。確かに、そう、ぼくは眠りたい、ぼくは実際とてもよく眠る、おそらく多すぎるくらい。ありがたいことに、本当に睡眠が必要なんだ。時々、映画に中で、突然昼から夜に移行すると、新陳代謝が問題になるけど、それだけだ。もし不眠症になったら、ある日、ニーチェのような気違い、誰もがそうであるような気違いになってしまうにちがいない。眠ること、それはぼくがトルストイから、あるいはまたロッセリーニから学んだ昔からの特技だ。(…)」