ミュンヘン時代のストローブ

「しかし、また別の若い映画が存在する、ジョージ・モース、ヴァルド・クリストル、ペーター・ネストラールドルフ・トーメ、マックス・ツィールマン、クラウス・レムケの映画である(ここに別の名前が近いうちに加わることを希望している)。みんなまったく異なる映画を作っているが、どれもそれなりに愛すべき作品である。しかし、彼らに共通しているのは、役人の映画とは異なるものを作っているという点であり、そのために彼らには市民権がないのだ。さらに彼らは、気狂いとか、コミュニスト(殺人的言葉だ)とか、ディレッタントとか非難される、それは、まさに彼らが、美的、道徳的アカデミズムとは異なるものを制作しており、自分たちの仕事を、現実を、民衆を見下していないからなのだ。ルドルフ・トーメの新作『シュテラ』は、若いカップルについて即興で撮られた短編だが、検閲によって容赦なく禁止された、というのも、トーメが具体的状況から出発して道徳を新たに発明することをあえてやろうとしたからだ。何人かのジャーナリストが性急に書いているような、若い映画監督の新たなグループなどというものではない、ただすべての人に開かれた結びつきの始まりなのだ。
猥褻なところはない、とはつまり、虚飾もないし、嘘で装われただけの芸術と呼ばれるしろものもない。トーメの映画はショックをあたえる、なぜならそこで人々は芝居らしく語らないから。ネストラーの映画はショックを与える、なぜならそこで芸術において市民権をもたない顔を目にするから、例えば『ミュールハイム(ルール)』のようにドイツ社会によって救いようなしと宣告された子供たちをあえて見せようとするから。」(ストローブ、1966)
“écrits. Jean-Marie Straub et Daniéle Huillet”, Independencia éditions, Paris 2012, pp.45-46.