ストローブのネストラー論

「われわれが作る映画の問題点は、知的であることではなく、あまりに単純であることだ。それらは感覚的だ。そのあらゆる瞬間が意味しているのは、光と運動を見てくれ、音に耳を傾けてくれということだ。」(ストローブ=ユイレ、ネストラー『時の擁護』より)
ペーター・ネストラー、和解なきドキュメンタリスト
ペーター・ネストラーは7本のドキュメンタリーを撮った、いくつかはテレビのために、いくつかは自費で、少しずつ人々は彼の映画について考えるべきだと言い始めている。なぜ少しずつなのか?これらの映画は表面的愛着を示す観客の前に出されるものではなく、その内奥までしっかり見ることを要求する、これはまさに映画を取り巻く環境においてほとんど普及していない特質だ。ドキュメンタリーを撮るには、いろいろな拘束がある。芸術的な<自我>を恵まれた光のもとで見せる機会はまったくない、世界に監督の個人的痕跡を刻みつけることも、様々な様式を生み出すこともできない――ただひとつ大切なことは、カメラの前にあるものに対する謙虚さである、そしてこの点においてこそ監督の人となりが明らかになる。
ペーター・ネストラーは、あらかじめ作られた主張なしに映画に取り組む、現実が監督の意図のために操作されることはない――当然そうでなければならないのに、不幸にもそうなっていない事柄だ。彼が放棄したものから出発して、これらの映画を説明する方がたやすいだろう。なぜ、彼は何をおこなっているのか?明らかに世界で最も単純なこと、そして同時に最も困難なことだ。彼はカメラを、家々に、通りに、人々に向ける。彼は様々な人物に語らせ、コメントせずに選んでゆく。こうしてバラバラの断片から、工業都市の、変貌を遂げる風景の、労働者サークルのフレームが構築される。すべてが緊密に結びつき、われわれの眼前にひとつの世界が新たに形成される――われわれは世界を新たな結びつきにおいて見る。ペーター・ネストラーはけっして、カメラの背後に閉じ籠り、世界と関わりを断つことはしない、これらの映画は冷血さからほど遠い、だが、彼の視線はそれによってより正確かつ冷徹になるだけだ、なぜなら彼が関心を抱く唯一のことは、素材が最も傷つきやすい点、素材がその秘密を漏らしてくれる点を見つけることなのだから。この作家は、世界へのあらゆる直接介入をまさに自らに禁じているがゆえに、ショットの背後に、まずふつう思うような諦念ではなく、まさしく告発が発せられていないという事実からパトスを引き出す告発を認めるのである。つまり、これらの映画の美とポエジーさえも、詩的イメージの形式美とは何の関係もない――それは現実に光が当てられる時に浮き出てくる美でありポエジーである。あらゆる芸術作品がそうであるように、ペーター・ネストラーの映画は、世界を変革しようという要請を世界に対して発している。『水門のほとりで』、『子供の作文』、『ミュールハイム(ルール)』、『ライン河の流れ』、『エーデンヴァルトシュテッテン』『シェフィールドの労働者クラブ』、『ギリシャについて』は、そのような映画にほかならない。(1962年、ジャン=マリー・ストローブ)」
“écrits. Jean-Marie Straub et Danièle Huillet”, Paris 2012, p.50.

「真実の点を探す際には、ドキュメンタリーも劇映画も変わらない。それらはイメージの中に、風景とか身振りの中に潜んでいる。ルノワールの『トニ』では、映像の中に隠れているものが機能している。それは「背中から出てくるもの」であって「腹から」ではない。捉えうるものではなく、生じるもの、撮影の時に感じるものだ。」(ネストラー、Dokumentarisch Arbeiten. クリストーフ・ヒュープナーによるインタヴュー、1994年)