日本人の歴史感覚

「日本社会は技術的な近代化がはやすぎるんだと思います。国民的実感は、技術的な近代化に適応してゆくのに大童ですから、生活についての歴史感覚がどうしても短い目盛りになってしまう。だから、東洋的な永遠の相の哲学が入ってこない、国民の実感のなかには。
(…)「祇園精舎の鐘の声…」は永遠感ではなく、常に細かいサイクル(循環)で繰り返される単純再生産工程の連続じゃないですか。その場合には、自分の生活の場を点としてとらえてしまうから、永遠につづく無限悠久の線のなかに位置づけないで、連続的コンテクストからはずしたところで感じとっている。だから逆に過去の任意の一点と任意に御都合的に結びつけてしまう。永遠感覚は出て来ない。
    つまり過去のものの非脈絡的な思い出ーー思い出の哲学になる。
(…)位牌を拝むでしょう。その場合は位牌とピタッと一致する。目の前にプリゼンテーションする。その時は位牌以後の時間点はなくなっている。歴史は消え去っている。連続性ではなく任意の二点のアイデンティフィケーション(同一化)の感覚じゃないでしょうか。」
(藤田省三、『戦後日本の思想』、岩波現代文庫、18-20頁)