アーレント

足立正生が語っていたパレスチナ楽天性について考えていたら、ハンナ・アーレントが亡命ユダヤ人楽天性について語っているのを見つけました。
「自分の生活を建て直すためには、頑強で、かつオプティミストであらねばならない。だからわれわれは、非常に楽観的なのである。」*1
「いや、われわれのオプティミズムには何か間違ったところがある。われわれのなかには、楽観的な話をたくさんしたあとで、全く思いもよらず、家に帰ってガス栓をひねったり、摩天楼から飛び降りたりする奇妙なオプティミストがいる。」*2
「われわれが亡命者でありたくないのは、ユダヤ人でありたくないからである。(…)われわれが自ら無国籍者と名のらないのは、世界中の無国籍者の大半はユダヤ人だからである。われわれがすすんで忠実なホッテントットになろうとするのは、ユダヤ人であるという事実をひたすら隠すためである。しかし、このような試みはうまくいかないし、うまくいくはずもない。あなた方は、われわれの「オプティミズム」の陰には同化主義者の絶望的な悲哀があることをたやすく発見するはずである。」*3
ユダヤ人であるということは、変身、擬態の達人ということでしょう。「われわれは、ドイツではよきドイツ人だった。したがって、フランスではよきフランス人になるだろう。」*4自分が何にでもなれる、どこの土地へ行ってもそこに根付いてみせる、でもユダヤ人であるのだけは御免だというのが、彼らの「オプティミズム」だとアーレントは言います。
佐藤真が言っていた「アイデンティティーの選択可能性」とは、ここで語られる「ユダヤ人」のように、自分が何にでもなれるということ、国家=アイデンティティーという固定観念を破壊して変身を繰り返す自由な楽天性をもつということではないでしょうか。もちろんこの楽天性は、流浪する者の「絶望的な悲哀」と表裏をなしているのかもしれませんが。マリナ・ツヴェタエワという詩人に「すべての人はユダヤ人だ」という言葉があり、今ではもう68年の政治闘争の残滓のようで死語と考えていましたが、佐藤はこれをサイードを介してパレスチナと結びつけることで、もう一度蘇らせようとしているのではないでしょうか。時代錯誤的振る舞いをあえてすることで、「ユダヤ的」パレスチナというドッペルゲンガーを生み出そうというしたたかな戦略そこにはあるのかもしれません。それは、イスラエルが失ったすでに不在の「ユダヤ」性を、パレスチナを通じて撮ろうとする試みとして、やはりこれまでと同じ佐藤作品の延長にあると言えるでしょう。

*1:『パーリアとしてのユダヤ人未来社、1991、10頁

*2:同、14頁

*3:同、24-25頁

*4:同、25頁