『ボヴァリー夫人』

ルノワールの『ボヴァリー夫人』も足音にこだわった映画です。騎士道に憧れるエンマと医師シャルル・ボヴァリーが知り合うのは、エンマの父ルオーの足の治療がきっかけで、馬の足音を響かせて往診するシャルルにエンマは、馬は馬車よりエレガントだと言い好意を示し、結婚後、馬車をプレゼントされてからは、馬の足音を響かせながら夫婦で田舎道を走ります。レオンの辞去を暗示する馬車後方の風景を捉えた移動撮影の後、不機嫌なエンマが夫の身なりに難癖をつけるのは愛用の長靴についてであり、舞踏会でワルツのステップを覚えたエンマは、靴がきつくて踊れない夫に愛想を尽かします。ロドルフと初めて関係をもつ乗馬シーンでは、後にレオンと結ばれる馬車の走行シーン同様、馬の足音の代わりに音楽が入れられますが、やがてシャルルがイポリットの足の外科手術に失敗したことで、ロドルフに駆け落ちを迫り、逆に捨てられるエンマは、通りを走る馬の足音に反応して失神します。この映画の主調音である馬の足音は、この後、レオンとの逢引のためにルーアンとヨンヴィルの間をエンマが往復する馬車によって引き継がれますが、エンマと男たちの関係にも、馬に乗るためロドルフの差し出す手に足を置くエンマ、密会でエンマの靴を脱がせるレオン、金の無心に来たエンマの足に見とれるギヨマン氏と必ず足が介在します。このようなエンマのあり方は、不自由な足を引き摺り馬蹄の音を立てて歩くイポリットと呼応し合い、彼が矯正具を嵌められたり、足を切断されたりと医学的実験素材として扱われるように、エンマもまたルルウ氏の店に並ぶマネキンのように、次々に衣装を着替えながら、失恋のショックから空ろな眼で中を見つめたり、オペラを観た興奮で眼を異様に見ひらいたり、レオンとの抱擁で冷汗をかいたり、砒素を飲んで錯乱したりと、自分ではコントロールできない気質や身体条件によって左右される自動人形的存在として描かれます。瀕死のエンマを見守るシャルルの傍らに杖をついたイポリットが付き添うという原作にないシーンをルノワールが加えたのは、このようなエンマとイポリットの相関性ゆえにでしょう。