大友良英と叙事演劇

大友良英が、高橋悠治のワークショップで行われた「音に集中しない聴取の訓練」について書いています。*1それによれば、音の聴き方には、「認識的に聴く方法」と「非認識的とでもいうしかない、ぼんやりと全体を感じるような聴き方」があり、互いに「補完しあって聴取を可能にしている」。前者は、音を「どこまでも正確に明確に聴き取る」ため意識を集中し、「音を選別して意味として認識」する聴き方、あるいは「自分の知っている音を過去の記憶と参照して、その音がなんであるかを認識する作業」。後者は、「ある音に集中せずに、自分のいる状況全体の音をひたすら「ぼや〜ん」と長時間、聴く」こと、「意識していなくても感じている何か」、「自分の立ち位置や存在、意識下の意志決定や次の行動をする上で非常に重要な役目をになっているとすら思える」ものと関わる「認識外聴取」であると大友は言います。つまり、大友は聴くということを、集中と散漫、意識化された記憶と無意識的なものという二つの方向から捉えながら、Sachiko Mや杉本拓の音楽、あるいは相米映画における「認識外聴取」の重要性へと話を続けてゆきます。
ここで大友が言う意識を集中しない「認識外聴取」は、ブレヒトの叙事演劇の特徴としてベンヤミンが挙げる「くつろいだ関心」と関連していそうです。*2ベンヤミンによれば、叙事演劇は、「くつろいだ公衆を、ゆったりと劇の動きを追う公衆を、観客として予想している」。ここで「くつろぐ」ということは、観客をストーリーに集中させないこと、「演技やポスターや字幕をつうじて」、ストーリーから「センセーションの性格を一掃すること」と関わっています。「叙事演劇が観客とする公衆の特質、つまり、くつろいだ関心は、彼らの感情移入能力への訴えがほとんどなされない、というところから生まれる。叙事演劇の技巧は、感情移入ではなくむしろ驚きを喚起することである。定式化して言えば、公衆はヒーローに感情移入することではなく、むしろ、ヒーローの行動のおかれている状況に驚きを覚えることを求められるのだ。」ブレヒトは、このような「くつろいだ」叙事演劇を、カタルシスを特徴とする「劇的演劇」に対立するものとして非アリストテレス的と呼びますが、そこでは筋の展開よりも状況の表現に重点が置かれ、この状況の発見=異化は、「劇の流れの中断」によって可能になるとされます。「叙事演劇は、映画フィルムの映像のように、ワン・ショットずつ進行する。その基本形式は、互いに異なるシチュエーションとシチュエーションとの衝突による、ショックという形式である。ソングや字幕や特定の身振りなどが、ひとつのシチュエーションを、他に対して際立たせる。その結果として、公衆のイリュージョンをどちらかと言えば損なうような、インターヴァルが生まれ、感情移入しようとする公衆の気構えを萎えさせる。(…)叙事演劇における演技者の任務は、彼が頭脳を冷静に保っていることを、演技でもって証明することである。彼にとっても感情移入はものの役に立たぬ。(…)叙事演劇に近づくには、「お芝居をする」というイメージを手掛かりにするのが、たぶん一番素直な行き方だろう。」叙事演劇についてのこのような規定は、例えばモンテイロの『J・Wの腰つき』にそのまま当てはめることができるでしょう。叙事演劇とは、行動の中断としての身振りの劇であり、テクストの脈絡の中断としての引用の劇であると言うこともできます。劇の流れのたえざる中断によって、観客の意識がストーリーに集中することを妨げ、観客が「ぼんやりと全体を感じる」ような仕方で状況を発見=異化するよう導き、「教育する」こと。このようなギリシア悲劇からの脱出の試み、「悲劇的でないヒーローの探索」の道筋は、「ヨーロッパ的なものだが、ドイツ的なものである」とベンヤミンは言います。「中世演劇とバロック演劇の遺産をぼくらにまで伝えてきたルートは、むしろ密輸業者の道、抜け道と言うべきかもしれぬ。この間道が今日、荒れ果ててぼうぼうの道とはいえ、ブレヒトの劇作品の中に姿を現わすのだ。」

*1:http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/diary/diary-kiku5.html

*2:「叙事的演劇とはなにか」、『ヴァルター・ベンヤミン著作集9』、晶文社、1971、8-21頁、以下引用に際し訳文に軽度の変更を加えた。