パゾリーニの「もうひとつの映画」

パゾリーニが提唱する「ポエジーとしての映画」*1とは、本来、「人間の始原の次元に属している」身振り、環境、夢、記憶などの「イメージ記号」において、「語りに関しての伝統的な約束事によって久しく抑圧されていた表現の様々な可能性を解き放」ち、「事物自体の持つ純粋で不気味な美のごときもの」=「文体素」を出現させるものです。その際、彼が用いるのが「自由間接話法」と呼ばれる手法ですが、それは作中人物の主観ショットをカメラが擬態(=ミメーシス)しながら、その擬態を通じてカメラ自身の存在を感じさせるという二重化作用です。つまり、そこでは相似した、しかし非対称的な二つの視線が相関関係に置かれ、口実としてなぞられる物語の主観性が、それを擬態するカメラの「偽りの客観主義に装われ、姿を隠して」しまうという二重化において主観と客観の境界が失効し、そこに「裸の、なまなましい、そしてまったく自然な主観性」としての「ポエジーとしての映画」が出現することになります。それはドゥルーズによれば、「主観と客観を超えて、内容から自律した光景として立ち上がる純粋な形式へ向かうこと」*2、「堅固な幾何学的、物質的知覚の位階」*3において「高度な美的形式に従った不動化」*4をおこなうことです。*5パゾリーニ自身はベルトルッチを分析しながら、「現実のある一部分をひたと捉えて離さぬ画面の固定性・不動性」、「細部についての、なかんずく、本筋とはあまり関係ないような部分についての異様なまでの固執」をとおして、「おのれの映画を乗り越え、ともすればそれを放棄してまでも、自身の生の根源的な諸経験の織りなす世界への愛にわれ知らずに惹かれてゆくがごとき作家の存在」を示すことと、「ポエジーとしての映画」を特徴づけます。つまり、パゾリーニにとって映画は、映画そのものを乗り越え、「もうひとつ別の映画をつくりだすことへの誘い」、映画自体の内部における映画の差異化です。
「異常なほど執拗なモンタージュのリズムとか、同一の対象が繰り返し繰り返し執拗に映し出される画面だとかが、この、ひとつの映画の底に潜み、陽の目を見ることのない、もうひとつの映画の存在を明かしている。ところが、このような執拗な働きをなす力は、映画の共通言語の規則に背を向けるばかりか、“自由間接表現”としての映画の構造にさえ反旗を翻すのだ。これこそまさに、異なった、そしておそらくはより真率なインスピレーションに従うことによって、映画の言語がその通常の機能からわが身を解き放ち、“言語それ自体”として、つまり文体として、その姿を現す瞬間だ。」
映画が物語を語るのは、口実としての「偽の物語」をなぞりながら、細部への「異様なまでの固執」によってその存在を露呈するカメラをとおして(あるいは物語が展開するフレームの外の「周辺聴取的な」音をとおして)、物語の背後から「“自由間接表現”としての映画の構造にさえ反旗を翻す」「“言語それ自体”」としての「もうひとつの映画」が姿を現すためなのです。

*1:「ポエジーとしての映画」、塩瀬宏訳、『映画理論集成』所収、フィルムアート社、1987、263‐289頁。

*2:L’IMAGE-MOUVEMENT, p.108.

*3:Ibid., p.291

*4:Ibid., p.108.

*5: ドゥルーズによるパゾリーニ評価に関しては、谷昌親、「鏡像を毀すナルシス」(『現代詩手帖』1998年7月号パゾリーニ特集所収)に詳しい。