ゴダールの「もうひとつの映画」

60年代にリュック・ムレとともにパゾリーニ記号学への傾倒を批判したゴダールは、時とともにその立場を微妙に変化させながら、『映画史』3Aのイタリア映画讃歌のラストでロッセリーニに次いでパゾリーニの肖像を映し出し、そこに形式と思考についてのテーゼ(「思考する形式、形式化する思考」)を重ね合わせ、4Aでヒッチコックをめぐって、「事物の根底をなすのは何かを教えてくれるのも結局、形式だ」と述べるとき、「形式主義的ヴィジョン」*1をとおして「もうひとつの映画」という映画それ自体の内部での差異化へ向かうパゾリーニにきわめて近い地点にいると思えます。
『映画史』において繰り返し語られる美女と野獣、民衆と国家、光と闇、無とイメージ、フィクションとドキュメンタリー、「急ぎ足でわれわれに歩み寄って来る歴史」と「のろのろとわれわれに同伴する歴史」という対立は、その両極の「弱々しい相互作用の諸力」から「シネマトグラフの力」が生じる映画に本質的な二重性にほかならず(ゆえに映画作家とは、二人の相反する主人に仕える者として、道化師(チャップリン)的・詐欺師(ウェルズ)的存在であり、時代との闘争においても「逃げ腰で半分-敵対する」立場にあると言われます)、そこから「全世界の友となるもうひとつの映画」、「何かわからず、ほとんど無である」ような「隠れたページ」、「朧月の物語」としての「もうひとつの映画」が立ち現れます。それは、ヤン・オールトの宇宙の半分を構成する不可視の幽霊物質、心の中のいまだ存在しない場所、リュミエール兄弟のように瓜二つのリールの空の方、フランク・ボゼージの『鴉の女』やマックス・オフュルスの『女房学校』のようにフィルムが消失し、けっして見ることのできない映画、眠りと覚醒の間の瞬間に誰もが自分の周りに抱えている「不可視の夢」(ベンヤミン)など様々に言い換えられ、この存在と非在の二つの映画の関係は、「相手が夢から醒めず、闇に舞い戻ることのないように」との心遣いに充ちた男女の内気なワルツとして表象されます。「眠りと覚醒のあわいの存在の充溢」という無形のものに、たとえ「眠りの形」にすぎないとしても形を与える「もうひとつの映画」は、何よりも「ささやき」、「声」、「音楽」という聴覚的なものとして暗示され、4Bのラストで『JLG/自画像』から引用されるゴダールの耳の映像のように、それを聴取する耳を提示する映画(「私は自分のコンポジションの中に時間を聴く耳を示し、時間を聴かせ、それを未来に出現させようと試みる」)との相関関係において、つまり、映画そのものの二重化においてはじめて姿を現わします。

*1:パゾリーニ、「ポエジーとしての映画」、284頁。