『フランシスカ』

死んだジョゼ・アウグストの義母リタ・オーウェンからの手紙を、窓の光を背にして読むジョゼの義姉ジョゼファの姿を捉えていたカメラが、『ベニスに死す』を思わせるゆるやかな旋律とともに前進し、フレームアウトしたジョゼファの背後の白いカーテンを映すと、同じ手紙が今度はリタ・オーウェンの声でもう一度読まれます。手紙を書くリタとそれを読むジョゼファの切り返しショットの代替として用いられたのでしょうこのような反復は、この作品中で数度繰り返され、奇妙な効果を生み出しています。舞踏会で奥にマリアとジョゼ、手前にファニーとカミーロが蝋人形のように向かい合いながら、奥の二人が存在しないかのように、ジョゼに恋をするのは危険だとカミーロがファニーに警告するシーンでは、まず四人をミドルショットで捉えていたカメラが右へパンし、踊る人々の画面にフレーム外の二人の会話が重なりますが、その舞踏の動きが突然止まり会話が中断されると、今度は四人のバストショットで同じ会話が繰り返され、最後にファニーが他の男にダンスに誘われて会話が中断されるまで続きます。オーウェン家を訪ねてそこにカミーロが居合わせたことに不快感を示すジョゼに、マリア、ファニー、カミーロの三人が近寄り、ファニーが英詩を朗誦し、マリアがジョゼに手を差し出して拒絶されるのを、やはり『ベニスに死す』のように紫陽花で飾られた母リタ・オーウェンが奥の椅子から眺めているシーンでは、まず門から入ったジョゼの背後に置かれたカメラによって、次いで奥にいる母の視点からの逆構図で一連の出来事が反復されます。ファニーの遺体が安置された礼拝堂でのジョゼと女中との会話シーンでも同様に、まずジョゼのみを捉えた画面のフレーム外から女中の声と立ち去る足音のみが聞こえてくる長廻しの後に、女中が礼拝堂の中に入り同じ会話を繰り返し立ち去るまでを捉えた長廻しが続きます。これらの反復についてオリヴェイラは、彼にとって重要な「ある種の内面性、感情の内なる動き」を求める上で、「切り返しは常にある種のアクションを導入してしまう。人は常に外側にとどまる。切り返しは外的なアクションに運動を与える。だから、いや多分反動的でもある」がゆえに邪魔であり、そのためあえてこれを避けて反復という手段を取ったと述べています。*1切り返しによって自己と他者という近代的主体を前提とする立体的な運動空間を構築するのではなく、同じシーンを異なるアングルから反復し並列することで演劇空間をマチスの絵画のような平面性へと還元しようとする、ブレヒトの「演劇の文書化」に近い意図がそこにはあるのでしょう。反復は、硬直したままセリフを棒読みする登場人物に自動人形のような画一性、様式性を与えると同時に、パプストの『心の不思議』で先端恐怖症になった男の無意識的衝動が精神分析医による治療過程で反復的に再現・上演されるのを眼にするときのように、不思議な既視感覚を与えます。つまり、オリヴェイラが求める「内面性、感情の内なる動き」において登場人物は、アクションの主体としての自己同一性を保証されず、無意識のレベルで相互に作用し合い、ゆえに夢と現実の境界は曖昧になります。ジョゼと駆け落ちしたファニーがロデイロへ向かう船中で水のさざめきを聞きながら、花々の咲き乱れる温室にカミーロが彼女を訪ねて来る夢を見るシーン、からの馬車を見つめるジョゼのもとに天使のようなファニーとマリアの幻影が現れる白昼夢のシーンの美しさは、この夢と現実の相互浸透に由来しています。オリヴェイラ作品は、「人生は夢」というカルデロン風のバロック演劇を基調としており、そこで「私」という主体は、ゴダールが『フォーエヴァー・モーツァルト』の出発点としたフェルディナン・ペソアの言葉のように、「様々な俳優たちが、様々な劇を演じながら通り過ぎてゆく、生きた舞台」にほかなりません。*2『わが幼少時代のポルト』において青く霞む海に赤く点滅する灯台の灯りのように過去と現在の間で点滅していたポルト、『ニース、ジャン・ヴィゴについて』においてイギリス海岸近くの遊戯広場でピエロの歌に合わせて廻る飛行機遊具のように輪を描くヴィゴと仲間たちのニースとその反復としてのポルトガル移民労働者のニース。幾つものポルト、幾つものニースがあるように、「私」という主体も『世界の始まりへの旅』の俳優アフォンソのように時空を超えて無数のアフォンソとして反復されながら、柱を背負った不動の人形ペドロ・マカオような無名の民衆として回帰し続けます。

*1:マノエル・デ・オリヴェイラと現代ポルトガル映画』、59頁

*2:ゴダール全評論・全発言Ⅲ』、593頁