『アシク・ケリブ』

『アシク・ケリブ』の様式化された演劇においては、役者が盲人を演じるのではなく、たんに目隠しをすることで比喩的に表現される盲人たちが楽音をたよりに手探りで詩人の回りに集まる結婚式や、聾者の無音の世界を逆に流れ落ちる滝のさざめきによって表現した聾者たちの結婚式のように、音と映像の両面において<自然らしさ>にあえて逆らい、作り物性を強調する演出がなされています。映画はそのようなフィクションの嘘の力をとおして真実を語るのだとパラジャーノフは言うのでしょう。白馬の聖人の助けによって地の果てから一日で故郷に戻ったと言う詩人の話を嘘だと非難する村人の前で、詩人が死んだという恋敵の嘘で盲目となった母の眼を治す奇跡をおこなうことで、詩人はそれを本当だと信じさせます。操作された嘘によって盲目となった眼を、作り物としての映画の嘘の力によって開かせること、嘘を、あえてそれとわかる嘘によって乗り越え、それが嘘であることを見る者に自覚させること、愛の成就としてのラストに映される鳩とカメラの結びつきは、戦争好きな国家の嘘に対する映画的嘘の勝利を示しているようです。