『心のともしび』

ダグラス・サークは『心のともしび』についてこう語っています。「私のいちばんお気に入りの企画は、盲人の家に映画セットを作ることでした。たえずあたりを叩き、眼に見えない物を掴もうとする人々だけがそこにはいたでしょう。ここで私がじつに面白いと思うのは、この種の問題に映画という、それ自体眼に見える物とのみ関わるメディアをとおして挑み、向き合うことです。私の関心を掻き立てるのは、言葉がただ限られた重要性しかもたない世界と、言葉がほとんどすべてであるもうひとつの世界との間のコントラストです。これはきわめてドラマチックな区分です。」*1視力を失ったヘレンにとって世界は、他人を装い彼女を支えるボブが語る言葉によって喚起されるイマジネーションの世界としてあり、湖畔で少女ジュディーも加えて朗読されるコミックのフィクション世界と同様にメルヘン的なスイスの山あいのドライブにおいても、風景は見られるよりも聞かれるべきものとして提示され、運転するボブが「ライラックの花が咲いている。お誂え向きに満月だ。」と言っても、その背後にはいかにも作り物めいたアルプスの写真が貼られているだけで、月もライラックも見えないまま、いかにも「お誂え向き」のメロドラマのシチュエーションが語られます。しかし、サークは、この見ることが意味をもたない盲人の世界を描き、ボブに言葉で語らせながら、同時に作り物としての映画的美を山村での火祭りの天上に燃え上がる炎として演出して見せることで、作り物を見せることと作り物を聞かせることの間のコントラストを最高度に際立たせています。眼が見えないへレンがホテルの部屋の暗闇をひとり手探りで歩むシーンの美しさも、見ることが意味をもたない世界を、ダンスのように様式化された映画的美として見せようとするサークの意図によるのでしょう。

*1:Sirk on Sirk conversations with Jon Halliday, London 1997, p.111-112.