『メシア』

ロッセリーニの『メシア』は、後期の特徴であるズームによって遠方から役者にそれと気づかせないまま顔のアップを撮影する手法を用いながら、ロングショットで捉えられる民衆の中の一人としてのキリストに焦点が当てられています。ゆるやかな移動撮影が捉える湖畔での原始共産主義的共同生活においてキリストは、それぞれの手仕事に従事する人々に溶け込み、みずからも手仕事をしながら教えを説きます。洗者ヨハネによる洗礼や弟子たちの召命も控え目な演出によってキリストをことさら中心化することなく、あくまで民衆の中の一人という視点から描かれます。キリストが起こす奇跡もその待機と事後の時間における民衆の姿が撮られるのみであり、奇跡そのものは例えば天使にキリストの復活を告げられたのであろうマリアの顔のクローズアップが説明もなく提示されることで暗示されます。不自然に若く幼いマリアは、つねにほとんど黙したままキリストにつき従い、その言動を見聞きし理解しようと努める者として描かれますが、このマリアが湖畔の共同生活の中での子供との会話において例外的に、その前後のキリストの説教と同じく饒舌に天国について語るシーンは、「天国はこの地上にある。人はそれに気づかないだけだ。」という内容面からも他の聖書からの引用部分と異質であり、ここにロッセリーニキリスト教観があらわれているように思えます。この子供とマリアの会話は、幼少のキリストが両親の知らぬ間に神殿に入るという出来事とゴルゴダへ向かうキリストの十字架の道行きを見せる代わりに二度挿入される子供たちのわらべ歌と呼応しながら、何よりもキリストの説教を聞かせるものとして作られたこの映画の聴覚性に、マリアと幼子という別の音域を導入する契機となっています。