ムージルの映画論

ローベルト・ムージルは「新しい美学へのきざし」としての映画を論じたエッセー*1で、映画においてはすべての事物が「観相学的印象」あるいは「象徴的相貌」を与えられるというベラ・バラージュのテーゼを取り上げながら、「世界は物と物からなる関係としてではなくて、自我と結びついた一連の体験として体験される」というこの映画的観相学において「すべての存在が有する無限性と表現不可能性の一切を展開させ」ながら、もう一方で「諸印象の結合と加工の点で」「他の芸術のいずれにもまして強固に、もっとも安易な合理主義と類型に繋がれている」映画の二重性を指摘しています。すなわち、一方に表現不可能な「純粋な現状態」における直接的体験としてしかありえない世界があり、もう一方に経験としてたえず概念化され公式化される世界がある。ムージルによれば、映画を含めた芸術が目指すのは、この「「二つの世界の境界」の彼岸にある、あの「別の状態」」、「繰り返しノーマルな状態に復帰すべくそこへと接近する仮説としての境界領域」であり、ゆえに芸術とは、「独立していない状態、あたかも虚空に迫持をもっているかのごとく、大地からせり上がっている橋のように見える」と言われます。日常の事物が、「象徴的相貌」を付与されたものとして現れるというバラージュの映画的体験から出発して、ムージルは映画を外部世界と内面世界、ドキュメンタリーとフィクションの境界領域をたゆたうもの、二つの世界の間の虚空に架かる橋として捉えます。ゴダールにおける橋のイメージがここに繋がっていることは言うまでもないでしょう。

*1:「新しい美学へのきざし―映画のドラマトゥルギーについての所見」(1925)、ムージル著作集第九巻(松籟社、1997)、156-174頁。