『ロベレ将軍』

ロッセリーニの『ロベレ将軍』にロベレ将軍は一度も登場しません。つまり、ロベレ将軍は実体のない名前だけの存在、パルチザンがその名前のもとに結束するいわば象徴です。ヴィットリオ・デ・シーカ演じる主人公、詐欺師バルドーネは、ナチスが将軍を捕らえたという偽情報を流すのに協力して牢獄に入り、ロベレ将軍を演じることになります。そこで彼は、独房の壁に残された文字を読み、政治犯として囚われたパルチザンの声を聞き、将軍として拷問にかけられ、将軍の本当の妻から手紙を受取るうちに、次第に将軍そのものになりきり、最後はロベレ将軍として妻に手紙を書き、自らの意志で銃殺されます。つまり、平凡な一人の民衆が、ロベレ将軍を演じ、その名前が象徴する正義の理念を体現する者へと変容してゆく。ここでロベレ将軍とは、『Vフォー・ヴェンデッタ』のVと同様、正義のために戦うすべての民衆がその名前を署名しうる、実体のない仮面にほかなりません。それは贋作画家が、自らの名前をけっして署名せず、他の無数の名前を用いることと本質的に同じでしょう。正義の理念は、むきだしの真理として現れることはない(サークならそんなもの役に立たないと言うでしょう)。それは、一人の「私」、一つの国家を越えて、他者とともにあろうとする「非個人的な人々」(マラルメ)による非拘束的な仮象の共同体としてのみありうるでしょう。仮象の芸術としての映画の力は、演劇的なもののカメラによる分析をとおして、そのような無名の民衆の共同体をフィクションとして提示しうるところにあります。