映画的主体

ロベレ将軍』にロベレ将軍が一度も登場しないのと同様に、ダグラス・サークの『心のともしび』では、死んだフィリップ医師の肖像が存在するにもかかわらず、それが観客の目に触れることはありません。フィリップ医師はその不在によってボブの心に「取り憑いて」離れない「オブセッション」であり、ボブ自身がその行為を模倣し、演じることで、やがてそのものになりきってゆくひとつの役柄、「ロベレ将軍」と同じある理念の具現化です。それは誰もがなりうる一種の典型であるがゆえに、肖像として提示される必要がありません。たえず自分以外の誰かを演じることにおいて、ヒロインとの関係を築いたボブは、自分の名前を告白することによって彼女を失います。彼が再び彼女を得るのは、フィリップ医師と同じ外科医となって、いわばフィリップ医師の分身として手術をおこない、彼女の命を救うことによってです。サークにおいて、真実は嘘の見かけに蔽われてはじめて真実として現れ、「私」は他者を演じ他者の仮面をつけることで真の「私」となります。ルノワールの『黄金の馬車』でも、ヒロインのカミーラは、舞台でコロンビーヌを演じることをとおして、真のカミーラを見出すと言われます。「私とは他者であり」、人生は私が他者を演じる舞台としてはじめて意味をもつとの認識から出発して、サーク、ロッセリーニルノワールは(ここにオリヴェイラを加えることもできるでしょう)、映画と演劇の関係を探求してゆきます。このような映画的主体のあり方が、ルノワールにおけるコメディア・デラルテロッセリーニにおけるパルチザン、あるいはオリヴェイラにおけるペドロ・マカオのように、無名の民衆の力と結びついていることは、民衆の鏡として誕生した映画本来の可能性を示唆しているように思えます。