『満山紅柿』

小川紳介+彭小蓮の『満山紅柿』にはドキュメンタリーとフィクションという映画に本質的な二方向において、民衆と映画の関わりについての重要な示唆があるように思えます。一方で、映画は民衆の手仕事を記録する労働であり、手仕事によって結ばれた民衆の(やがては消えゆく)共同体を映しとどめる鏡であるというジガ・ヴェルトフに連なる認識があり、繰り返し取り上げられる柿の皮むき機の回転運動は、『カメラを持った男』の手回しカメラの運動へとそのまま繋がってゆきます。もう一方には小川紳介を魅了してやまない民衆の語りのみごとさがあります。酒井貞雄さんが語るどれも嘘っぽい紅柿の由来や佐々木喜美子さんの感動的な回想談は、オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』のペドロ・マカオについての詩やルノワールの『黄金の馬車』のコメディア・デラルテ同様、物語=フィクションが民衆の生活の中から生まれ、民衆のチャップリン的なたくましさを表現するものとしてあることを示しています。後を引き継いだ彭小蓮は、小川のこの二つの視点を確実に受け継いで、素晴らしい作品に仕上げています。