映画と民衆

映画は、一方で民衆の日々反復される労働をカメラなど機械類の回転運動の反復性との相似において記録し、手仕事によって結ばれた民衆の共同体を示すドキュメンタリー性を指向しながら、もう一方で民衆の語り、あるいは民衆劇といったやはりある種の反復性を特徴とする民衆芸術をとおして表現されるフィクションとして民衆の共同体を提示するという二方向において民衆を表象してきたのではないでしょうか。そのどちらも反復性と円環性を特徴としながらも、前者の機械的反復と後者の民衆芸術の形式的反復とが互いに補完し合って、はじめて映画は民衆芸術として成立しうるのではないでしょうか。例えば小津安二郎の映画において、よく似たシチュエーションの反復、リメイクは複製技術による芸術としての映画の無機質なコピー性を示しながら、同時にそれをとおして展開される庶民劇の生き生きした反復性ともなりえていると思えます。あるいは、ティム・バートンの『チャーリーとチョコレート工場』において、無数のコピーとして存在する労働力によって構成され、コピー製品を大量生産するチョコレート工場の不気味さが克服されるのは、増殖するのに親を必要としないコピーの世界に閉じこもり、「両親」という言葉を発せられなくなっていたウィリー・ウォンカが、クリストファー・リー演じる父と和解することによってですが、それは映画というコピー製品の無限増殖の不気味さを、クリストファー・リーに象徴されるハマー・フィルムのホラー映画シリーズの語りの形式が、映画史において父から子へ伝承されるように監督に受け継がれ反復されるという家族的な結びつきの導入によって乗り越えようとするものと考えられます。