声の機械状化

ドゥルーズによれば、音楽は「声の脱領土化」によって始まります*1。男女それぞれに特有の響きによって領土化されている声が、性差を乗り越え、「つまりアレンジされ、ある特有のアレンジメントを見出し、自らがアレンジメントとなり、機械状のものとなった」とき、それは「子供の声」となります*2。カウンター・テナーの裏声やカストラートの声のように、それは「脱性化されたエロス」(フロイト)の表出として、エロスタナトスの二進法の外で、「声による音の機械を作り出す」*3。あるいは逆に「管弦楽的・器楽的な機械状化」の中に声をひとつの要素として組み入れること*4。このような声の脱領土化としての脱性化=機械状化、「子供への生成変化」が、初期のトーキー映画にも見られることをドゥルーズは指摘します。例えばボガードの「少しも個体化されてない、完全に線的な声」、「非常にリズム感があって抑揚のない声」*5、あるいは『モダンタイムズ』において様々な機械音と並置されるチャップリンの意味を欠いた歌声を想起することもできるでしょう。

*1:ジル・ドゥルーズ「音楽について」、批評空間第Ⅱ期第18号、1998年、85頁

*2:85頁

*3:88頁

*4:90頁

*5:91頁