ポンス/チェルケッティ

カーネギーホール』のリリー・ポンスの歌声の傍らに、ウルマーがもう一方で好んだ『アメリカン・マッチメーカー』のイディッシュ語ソングや『恐怖の回り道』のジャズといった世俗音楽を置いてみると、ヴェルナー・シュレーターが『愛の破片』でベッリーニの『ノルマ』を歌うアニタ・チェルケッティの傍らにブレヒト=ヴァイルを歌うトゥルデリーゼ・シュミットを置いたこととのあいだに相関性が見出されるように思います。「楽器に声を組み込む管弦楽的機械状化」を進めたワーグナーヴェルディに対して、カウンター・テナーやカストラートの伝統に連なる「声に直にかかわる機械状化」にこだわった*1ロッシーニベッリーニの作品の中にニーチェが「南国的」な「卑俗性」、民衆的な「仮面の喜び」*2を見出したように、ポンスやチェルケッティといったコロラトゥーラの機械状化された歌声は、民衆的なものとかかわっています。それは、ドゥルーズ的に言えば、「もっとも欠けているもの」としての民衆とかかわるもの、<子供への生成変化>を遂げた声の「分子状集団が来たるべき民衆の種を蒔いたり、さらには来たるべき民衆を産み出したりもする、そして来たるべき民衆に移行し、宇宙を切り開くという希望」*3とかかわるものであるでしょう。「ポップスが放つ音の分子は、いま、いたるところに新しいタイプの民衆を育てていないとも限らないのだ。それは、ラジオの指令にも、コンピューターによる管理にも、また原子爆弾の脅威にも、およそ無関心な民衆だ。」*4

*1:ドゥルーズ、「音楽について」、90頁。

*2:『華やぐ智慧』、断片77

*3:千のプラトー』、河出書房新社、397頁。

*4: