ジュネの音楽

「(…)三つのグループとも、それぞれ異なる歌い方をした。ふつうは斉唱だが、子供の兵士が自分で選んだところで二音か二音半高く顫音(トリル)で歌うのに備えた場合は別だった。このときコーラス隊は、まるで先祖に道を譲り、自分たちは引き下がるようにして沈黙するのだった。声の対立は、イスラエル国家の地上の王国と、パレスチナ兵の母音の歌以外に支えをもたない大地なき大地との対立を強調していた」*1
宇野邦一はジュネの思考と文体における真と偽、肯定と否定、主体と客体、あるいは倫理と美学の対立・反転・循環を、「ヴェールからヴェールへの、歌から歌への移行が描く音楽(曲線)」。」*2として読むべきではないかと提案しています。「ジュネの世界ではすべてがカードなしのトランプに似て擬装されている。闇は擬装された光、光は擬装された闇、沈黙は擬装された言葉、言葉は擬装された沈黙、いつでもたがいに反転しうる。そんなふうに擬装し変身するなかで、光も言葉も新たに屈折し、未知の配置に導かれる。」*3ドゥルーズならばそれを、赤ん坊の「いないいないばー(fort/da)」と同じリトルネロとしての音楽と呼ぶでしょう。私は繰り返し他者を擬装することにおいて、仮面のたえざる置き換え、「在と不在の交替的構造」(ラカン)において存在している。リトルネロとはその交替のリズムにほかなりません。ユスターシュプルーストを読んで『ママと娼婦』を構想したのも、ベンヤミンも言うように、プルーストが「われわれの人生を彩っている様々な事物に忠義を尽くすことを自らの本分」*4としたから、それによって「プルーストは最も深い意味で死の側に」*5、つまり、フロイトの言う死の欲動が支配する脱性化されたエロスの偽装と置き換えの世界に生きていたからでしょう。それゆえ、『ママと娼婦』の、ラジオや受話器や蓄音機から流れる機械音とともに、自らも「辞書のように」語るレオーの声が機械状アレンジメントへと織り合わされた世界においては、ママも娼婦も、男女という性別も、互いに交換可能なものとなります。

*1:ジャン・ジュネ、『恋する虜』

*2:宇野邦一、『ジャン・ジュネ 身振りと内在平面』、以文社、2004、122頁。

*3:同、120頁。

*4:『パサージュ論』、[S2,3]

*5: