『生きるべきか死ぬべきか』

ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』において、このハムレットのセリフが発せられると、必ず誰かが劇場の外へ抜け出します。それは、演劇を劇場の外へと脱領土化し、ヒットラーが世界規模で上演するファシズムの舞台上へと解き放ち、めまぐるしい真偽の反転と置き換えの喜劇によって、生真面目なファシズム演劇を内部から解体しようとする合言葉にほかならないでしょう。ワルシャワの劇団員たちによって贋ゲシュタポ本部に誘い出されたナチスのスパイ、シレツキー教授と俳優ヨゼフ・トゥーラ演じる贋ゲシュタポ隊長エアハルトの会話場面は、やがて本物のゲシュタポ本部において、トゥーラによって本物そのままに演じられる贋シレツキーと、トゥーラが演じた贋エアハルトにそっくりの本物エアハルトとの会話場面へと転換され、さらに殺害されたシレツキーの死体と贋シレツキーが対面するシーンでは、贋シレツキーの機転で付け髭となった本物が贋物と見なされ、そこにトゥーラを助けようと闖入して来る贋親衛隊によって贋シレツキーが贋物であることまで暴かれてしまいます。「在るべきか、在らざるべきか」という在と不在の交換を歌うリトルネロとして響くハムレットのセリフは、こうして真偽のめまぐるしい反転と置き換えとして展開され、ヒットラーを迎えた劇場の廊下で贋ヒットラーに向かって発せられるシャイロックの痛烈なセリフとともに、ファシズムの閉ざされた劇場型政治に抵抗する擬装の喜びとその奔放な力を示すものとなります。