上演の映画

ドゥルーズは芸術を、機械的な悪しき反復が自由で豊かな反復へと反転し上演される舞台として捉えています。
「それぞれの芸術には、瓦のように重なり合った諸反復のテクニックがあり、その批判的かつ自由な力能は、わたしたちを、習慣の陰気な諸反復から記憶の深い諸反復へと、さらにはわたしたちの自由がそこで演じられる死の究極の諸反復へと導くために、最高の点にまで達することができるのである。」*1
ドゥルーズにとっては、芸術のみならず、哲学や精神分析もまた、根本においてひとつの演劇として構想されるべきものとしてありました。なぜなら、ゴダールペソアの言葉を引用して、「私とは、様々な俳優たちが、様々な劇を演じながら通り過ぎてゆく、生きた舞台にほかならない」と言うように、われわれの主体の成り立ちそのものが、死の欲動の反復性によって規定された仮面劇的上演の舞台としてあるからでしょう。
「(…)何かまったく新しいものが、キルケゴールニーチェと共に始まるのだ。彼らはもはや、ヘーゲル流に演劇を反省することはない。哲学的な演劇をつくるのでもない。彼らは、哲学において、演劇との途方もない等価物を創り出し、こうすることで未来の演劇とひとつの新しい哲学を同時に基礎づけるのである。」*2
「擬装とヴァリアント、仮面あるいは仮装は、「上」にかぶさってくるのではなく、反対に反復そのものの内的な発生的要素なのであり、反復をつくる構成的部分なのである。この道は、無意識の分析を、ひとつの真の演劇に導きえたはずのものである。」*3
「ビンズワンガーは、精神分裂病に関して、恐怖の演劇と言っていた。そこでは、「未視(ジャメ・ヴュ)」は「既視(デジャ・ヴュ)」の反対物ではなく、両者はそろって同じものを意味し、互いに他方のうちで体験されるものである。」*4
映画をこのような擬装と置き換えの仮面劇として構想し発展させたのが、ルノワール、サーク、ロッセリーニオリヴェイラという1920−30年代に映画を撮り始めたほぼ同世代の監督たちであったことは興味深いことです。

*1:『差異と反復』、財津理訳、1996、河出書房新社、434-435頁。

*2:同、29-30頁。

*3:同、41頁。

*4:同、42頁。