ジャ・ジャンクー

ジャ・ジャンクーは映画をまず声を聞かせることから始めます。『一瞬の夢』冒頭のバスを待つ人々の映像にかぶさる音源のわからない京劇風の男女の掛け合い、『プラットホーム』で劇場にたむろする人々の話し声とそれに続く青年団の芝居開始の口上、『青の稲妻』の意味不明のオペラを喚き立てる男の歌声、『世界』で「バンドエイドない?」と叫びながら楽屋を歩き回るタオの声、これらの声は、その時々の中国政府の政策に合わせて新刑法の普及、共産党の決定、宝くじやモンゴル酒購入呼びかけ、北京のテーマパークの案内などとして拡声器から流れる統制的な声、それによって社会機構の中に組み込まれ機械的に作動する大衆の娯楽としてのカラオケの歌声、さらにテレビのドラマやニュース、映画の音声など、機械をとおして変形された多様な声と呼応してポリフォニーを構成します。しかし、そのような声のポリフォニーとして映画を聞かせながら、ジャ・ジャンクーがあくまでこだわるのは、やはり『一瞬の夢』でメイメイが自室のベッドで小武にアカペラで歌って聞かせるフェイウォンや『青の稲妻』のラストで逮捕されたビンビンが警察で歌わされる「任逍遥」のように、おずおずと発せられる一人の人間の弱々しい歌声であり、それは『プラットホーム』で汽車の汽笛に同調して発せられる若者たちの叫び、あるいは『世界』で北京というヴァーチャル世界から抜け出すことを願いながら、その中心と周縁の間を往復するしかないタオが最後に辿り着く沈黙と同様に、統制的な意味の外へ向かって声そのものを<脱領土化>してゆくように思えます。