あんにや

大地へのロマン主義的回帰を謳って全共闘世代を率いていた谷川雁のはるか先を行っていたがゆえに、必然的に日本の市場システムから排除されざるをえなかった詩人・黒田喜夫の故郷には、「兄やん」を指すのに「あんつあ」と「あんにや」という二つの言葉があり、どちらで呼ばれるかによって決定的な相違があったといいます。「あんつあ」の方はごく普通に青年を指し、やがて青年が年を取り、一家を構えれば、「あんつあ」は自然に「おっつあ」か「おどつあ」へ変化してゆく。それに対して「あんにや」と呼ばれるのは、「単に一人の青年ではなく作男奉公をしている青年、独立すべき自分の土地がなく他家に隷属している若者」であり、村人たちは「一度そう呼んだ者を決して忘れず、彼が年をとって中年初老になっても、折にふれて名前の下に「あんにや」という言葉をつけて呼ぶ」ことをやめない。つまり、この「卑称」で呼ばれる青年は、「生きている限りあんにや〜青年である」ほかなく、「彼はそのにがい意味において永遠の青年である」。黒田が子供の頃、村に万五郎あんにやという気さくなおどけ者がおり、子供たちから「マンゴロウアンニヤア!」と囃したてられると、「おう」といつも笑顔で応えていた。しかし、ある年の夏、幼い黒田が桑畑のはずれで万五郎あんにやを見かけ、ふと、「マンゴロウアンニヤ!」と呼びかけたとき、「いつもとはちがった気配」が彼を驚愕させた。ひとりの子供の呼び声とあんにゃの沈黙とが対峙するその瞬間に、黒田は彼の詩の原風景を見ています。
「ほかに誰もいない静まりかえった畑のうえに「マンゴロウアンニヤア!」というかん高い声がひびき、だが万五郎あんにやは返事をせずに、ただ顔を起こして私をじっと見たのです。古ぼけた麦わら帽子の下の顔はひとすじの笑いもなく、日差しのために茶色に光って見えるひげにふちどられたにがい中年男の顔が黙って私を睨んだと思ったのです。(…)
そのときそこで何がおこったのかを理解したと思ったのは、私自身「あんにや」と呼ばれていい年齢になってからですが、それでも早く村を出た私は一度も「あんにや」と呼ばれたことはなく、ただ私の耳はみずから自分を「あんにや」と呼ぶ声を聞きつづけ、聞きつづけるその時どきに、かつて或る夏の日にかん高くひびいた自分の声と黙って私を見た万五郎あんにやの顔を忘れることができないのです。」