坂口安吾

坂口安吾は『日本文化私観』で小菅刑務所の建築と佃島ドライアイス工場と軍艦を、「直接心に突当り」、「僕の心をすぐ郷愁へ導いて行く」美しさをもつものとして挙げています。安吾によれば、それらが美しいのは、そこにただ「必要」からのみ生まれた「真の生活」しかないからですが、それはまた、「家へ帰る」という「郷愁」とも結ばれています。「叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると叱られてしまう」、「帰る」ということの中には、必ず「悲しさ、うしろめたさ」があり、そこから文学は生まれてくる。安吾にとっての故郷、無駄な装飾の一切ない実質のみの「生活」が剥き出しになっている場所、そこに帰ると「叱られてしまう」ような、「悲しさ、うしろめたさ」をともなう場所は、また「文学のふるさと」でもあるようです。例えば、可憐な少女が狼にムシャムシャ食べられてしまう「赤頭巾」の「むごたらしい美しさ」に安吾は、「いきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」」、「何か、氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」を見ています。ここで「突き放される」とは、「モラルがない」こと、「モラルがない、ということ自体が、モラル」であるような性質のもの、モラルを超えた、「大地に根の下りた生活に」突き放されることであると安吾は言います。それは、「いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらできない」、「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」であり、それが安吾にとっての「ふるさと」です。