安吾と花田清輝

坂口安吾は、「FARCE」=「茶番」を芸術の最高位に置きました。それは「形が無い」けれども「感じられる世界」として「実在」する「強い現実」における芸術、つまり、「ファルスとは、最も微妙に、この人間の「観念」の中に踊りを踊る妖精」、「ここから先へ一歩踏み外せば本当の「意味無し(ナンセンス)」になるという、斯様な、喜びや悲しみや嘆きや夢やくしゃみやムニャムニャや、凡有ゆる物の混沌の、凡有ゆる物の矛盾の、それら全ての最頂点(パラロキシミテ)に於いて、羽目を外して乱痴気騒ぎを演ずるところの愛すべき怪物」、「愛すべき王様」と言われます(「FARCEについて」より)。
その根底には人間存在の抱える矛盾の全的肯定があります。「正しい道化は人間の存在自体が孕んでいる不合理や矛盾の肯定からはじまる。警視総監が泥棒であっても、それを揶揄するのではなく、そのような不合理自体を、合理化しきれないゆえに、肯定し、丸呑みにし、笑いという豪華な魔術によって、有耶無耶のうちにそっくり昇天させようというのである。合理の世界が散々もてあました不合理を、もはや精根つきはてたので、突然不合理のまま丸呑みにして、笑いとばして了おうというわけである。だから道化の本来は合理精神の休息だ。そこまでは合理の法でどうにか捌きがついてきた。ここから先は、もう、どうにもならぬ。――という、ようやっと持ちこたえてきた合理精神の歯をくいしばった渋面が、笑いの国では、突然赤褌ひとつになって裸踊りをしているようなものである。それゆえ、笑いの高さ深さとは、笑いの直前まで、合理精神が不合理を合理化しようとしてどこまで努力してきたか、そうして、到頭、どの点で兜を脱いで投げ出してしまったかという程度による。」(「茶番に寄せて」より)
道化とは、合理が不合理と戦って敗れ、完全に不合理を肯定した「純粋な休み時間」、昨日まで貯めこんだ百万円を惜しげもなくバラ撒いて無一文になるときであると言われます。そこには涙もなく、揶揄もなく、凄味もなく、企みもなく、ただ「笑いのほかには何物もない」。すべてがまた新たに始まる出発点としての無=「純粋な休み時間」、それを虚無と呼ぶこともできるでしょう。安吾からたえず一歩距離を取りながらも敬愛の念を隠さなかった花田清輝は、このような虚無を「砂漠」に見ています。
「虚無とは、空虚なものではなく、無数のこまかい粒のようなものによって充たされ、絶えず波のようなもののさざまめながら流れている、明るくはあるが暗い、静かではあるが騒々しい、単調ではあるが複雑な、一種の矛盾した状態を指すのであり、この矛盾した状態は、実体のある砂と実体のない波とのはげしい対立からきており、その点、粒子と波動との対立を、対立のまま、統一する、量子力学の「状態」を思わせるものがあるが、――おそらくそのためであろう、落着いて沙漠の風景をながめてみると、たとえば、スフィンクスにしろ、ピラミッドにしろ、すべて私には、左辺の粒子の属性と、右辺の波動の属性とが、常数hによって結びつけられている、古典力学ではとうてい夢想することさえできなかった、量子の公式の象徴のような気がしだし、それが数学的な正確さをもっていればいるほど、いよいよ神秘的な感じがしてくるのだ。」(花田清輝「沙漠について」より)
安吾が小菅刑務所や佃島ドライアイス工場に「ふるさと」を感じたのは、やはりそこに対立を対立のまま肯定する虚無=「沙漠」の「数学的な正確さ」を見たからではないでしょうか。