フーコー/シュレーター

ヴェルナー・シュレーターとの対話でフーコーは次のように語っています。
心理主義映画から完全に抜け出そうとするあなたのやり方は、私には実り豊かなものと思えます。そこで見えるのは身体、顔、唇、目だけです。それらのものにあなたは一種の情熱にあふれた明証性を演じさせようとする。(…)人は人生や、自分の書いているもの、撮っている映画にのめり込んでいるまさにそのただなかで、何物かのアイデンティティの性質について問いただしたくなる。だがそれは「しくじり」に終わらざるをえない。なぜなら分類作業に向かってしまうからです。問題はまさに、さまざまな思考のあいだを結ぶような何物かを創造すること、それに名前を与えることが不可能であるようにして何物かを創造することなのであり、ゆえに、それが何であるかを決して明らかにしないような色調、形態、強度をそれに与えるべく毎瞬努力しなければならないのです。生きる術とはそうしたものです。生きる術、それは心理学を殺し、自分自身および他の人間たちとともに個体性、存在、関係性を作り出し、名前のない特性を作り出すことなのです。」*1
パウロ・ブランコ製作のシュレーターの新作『Nuit de Chien(This Night)』は、ポルトで撮影されており、ライトアップされたドウロ河の鉄橋を渡った夜行列車がポルト駅に到着して主人公がアズレージョの壁画のある駅舎から出てくるシーンで始まります。不在の恋人を探して夜の街を彷徨ううちに、多様な関係性が織りなされてゆきます。

*1:野崎歓訳、『ミシェル・フーコー思考集成IX自己/統治性/快楽』、筑摩書房、2001、50頁。