ジャン=クロード・ルソー

「フレームが正しいのは、それが移行するとき、開かれてあるとき、つまり、視線がもはや提示されているものの上に止まらず、横断するときです。移行とは、表象の彼方を、深部を、提示されているものの彼方を見ることです。この深部は現実的です。絵画あるいはスクリーン上のパースペクティヴはもちろん錯覚ですが、深部は現実的でしかありえず、ただ見られるものの現実、つまり、線の間の関係にのみ由来します。
この点でまたロベール・ブレッソンの覚書を再考してみるべきでしょう――「結末について考えること、なによりも結末について考えること。結末とは、スクリーンという表層でしかない。」
現実とは、この平らな表面上の線の間に存在する関係なのです。それこそが現実です。そして、正しい関係があるならば、その時、イマージュがあると言うことができます。イマージュは、それが提示するただの再‐現前でしかないものによってではなく、線の正しい関係によって存続します。(…)
フェルメールの絵画には、確かに表象とパースペクティヴの錯覚を作り出す線があります、しかし、それらの線は、モチーフから独立して正しいのです。
それらが正しいと言うことは、錯覚を作り出すためや、しかじかの場所にしかじかの物を見せるためにそれらが正しく置かれていると言うことではありません。それらの線は、その平面化=平面の演出において、表象から完全に独立した関係において、それ自体で存在しているのです。」*1

*1:『Dérives Autour de Jean-Claude Rousseau』(2007), p.25-26