ジャン=クロード・ルソー『閉ざされた谷』

『閉ざされた谷』について語るジャン=クロード・ルソー 聞き手:Cyril Neyrat *1
「(…)元素は、強いられずとも、またどんなに遠くから到来しようとも、調和することを承諾し、共鳴状態に入り、物語を聞かせます。不意に何かが現れます。私には何かが達成されたと言うことさえできません、なぜなら、それは始めと終わりがあるということですから。つまり、それが訪れるときには、総体的な仕方でなのです。あたかも回心のように。あたかも突然、すべてが調和し、形をなすかのように。それが映画です。「何も変わらないまま、すべてが異なるように。」というブレッソンの覚書を繰り返す以外どう言うことができるでしょう。映画が存在します。フィクションが築かれ、ひとはそれを信じるのです。調和の正しさが、われわれを促し信じさせます、なぜならあらゆるものが等しく合図を送るからです。それこそが元素による方向づけです。それは信の行為です。(…)最初ドキュメンタリー的な仕方で解釈されていた元素が、何も変わらないまま、物語の姿を取り、フィクションの要素としてみずからを現します。最初あるがままに見られていたとき、それらは何も意味していませんでした。ついで、それらが築く諸関係によって、われわれの物語への欲求が充たされます。それなしでは済まされないのです。これは物語のない映画はないという考え方です。(…)
厳密さとは一種の要請です。それはどこに由来するのかわかりませんが、映画の必然性、映画を作る必要性において十分でなく、そうある理由がないから拒否するようにと促します。この要請は選択されるものではありません。それは耐えねばならない命令です。それは気高い態度に存するのではありません。
(何を拒否するのですか?)器用さです。解決策として早急に訪れるもの、あまりにも早く空虚を埋めてしまうものです。それは場所とならぬまま、場所を塞いでしまいます。
(どのようにして?)愛想のいい繋ぎや誘惑的な調整をおそらく映画に先立つであろう<物語>との関係において行うことで。場所以外には、何も映画に先立つことはありません。(…)
(では『閉ざされた谷』の場所とは何ですか?)それはヴォークリューズの風景と混じり合った『嵐』*2です。ラウラの不在がその場所であり、詩人*3はたえずそこへ立ち返ります。それは詩人に欠かせない場所です。それは彼の作品そのものです。『カンツォニエーレ』*4とはそれなのです。不在の、まったき不在の場所です。『閉ざされた谷』もまたそうなのです。洞窟の輝く闇の中の、目に見える不在。無を示すイマージュ、なぜなら、不在において、ひとが目にするのはもはや無ではありません。ただ一枚のタブローでしかなく、そうしかありえないのです。
そこへ立ち返ること。源泉へと続く道を辿りなおすこと。人々の住む谷に背を向け、断崖に視線を遮られながら、進むこと。ラ・ソルグ*5の流れを遡ること、洞窟上に聳える岩壁に突き当たるまで。厳密さとはこういうことです――岩が道を閉ざす果てまで山道を辿り、そこで暗闇から源泉が湧き出すのを見ること。流れに沿って再び村まで降りること。明後日も、それに続く日々も、また源泉へ立ち返ること。まるで終わりがないかのように。諦めかけたとき、突然映画が現れるのです。
(『閉ざされた谷』で美しいのは、物語が後から、回心の後から到来することです。)つまり、物語はつねに聖なるものということでしょう。この信じることへの欲求ゆえに、そして、その欲求が、映画を信の行為とします。ここにドキュメンタリーとフィクションの近視眼的な区別を超える何かがあります。それこそがシネマです。私にとって重要なのは、信仰との関係です。この回心の結果、元素は信じるよう促すのです。ひとはそれを信じるしかありません。ドキュメンタリーとフィクションの間の関係が、そこにはあります。」

*1:"La Vallée Close" DVD付属冊子、50‐55頁、2008、Capricci社

*2:ティチアーノ作

*3:ペトラルカ

*4:ヴォークリューズに滞在したペトラルカが不在のラウラを歌った詩集。

*5:ヴォークリューズの泉を源とし、ヴァレ・クローズを横切り、リル・シュル・ラ・ソルグへ至るソルグ川(水路?)。