コロンブス

ユートピアが、時間と絶縁した抽象的空間にすぎないかぎり、時間からのユートピア的脱出の試みは挫折せざるをえないと、花田清輝は言います。「幸福をみいだしたと思った瞬間、人は発見した世界と捨て去った世界とが、実は瓜二つであったことに気づ」き、「発見した世界は、ふたたび惜し気もなく放棄される。」最悪の場合には、「人は、最初に捨ててきた古い世界の地盤が、いちばん、しっかりしていたのではないか、というような不甲斐のない錯覚におそわれ」、引き返す。時間の復讐。「帰ってきた古い世界で、誰からも相手にされず、コロンブスは、惨憺たる窮乏のなかに死んだ。」アメリカはコロンブスによってでなくとも、必ず誰かによって発見されたであろうし、コロンブス以前にも、アメリカを発見したという男たちの物語は数多く存在する。
「とはいえ」、と花田は言います。「そんなことは、コロンブスにとっても、また、私にとっても、ほとんど問題とするに足りないのではなかろうか。彼の時間にたいする憎悪は、そういう記録されうる白々しい時間にたいして向けられたのではなかったか。そうして、かれの空間にたいする愛情は、旋回し、流動する空間、――時間化された空間にたいして、そそがれたのではなかったか。羅針盤は壊れる。しかし、船は、まっしぐらに、虚無のなかを波を蹴ってすすむ。虚無とは何か。檣頭を鳥が掠め、泡だつ潮にのって、海草がながれてゆく。(…)」(『復興期の精神』、講談社学術文庫、92−95頁)