『水門のほとりで』

ペーター・ネストラー『水門のほとりで Am Siel』(1962)
http://www.youtube.com/watch?v=xUPtyIbEGhg(赤坂太輔氏twitterに感謝!)
ナレーション冒頭
「私は老いた水門。その端には村がある。村は映画に撮られたがっているのか、私にはわからない、堆積泥の間に死んだ様に横たわっている私は、鋭敏な眼差しをもつ気もないのだから。木の杭ともつれ合う柳の枝の間が導水路となっている。そこにわずかな水流が流れ込む。私の物語は水と泥土にまみれている。左右に広がる陸地も水と泥土で作られた、漁船の立てる波は、この陸地に遮られ消えてゆく。大きな波は来たことがない、しかし、波は人間の生活の息吹を海と砂の上に運んで行った。漁のために漁船が往き来しない時にも、波は親しげに打ち寄せ、私の抱く乏しい水を陸へ打ち上げる、私の暗い水面は、しばしの間、船とその竜骨を夢見る、するとそれらは少し傾いだ姿でそこにあり、おもむろに破損箇所を見せる。家々は、風に強い煉瓦で建てられている、私の岸辺には人々を招き寄せる広場があり、食堂もある。そこで漁船は休らうことができる。船の竜骨に砂がまといつく。鑿とハンマーを手に船を磨きに行く者もここで一服できる。入口の端の土地を私は食堂のために提供した、長く水の上にいると喉が渇くからだ。」


ビトムスキーによる『水門のほとりで』解説。
「最初のネストラー映画。これ以後、それぞれに異なるネストラー作品を作り上げてゆくのは、具体性についての彼の意識である。『ミュールハイム/ルール』では、多くの市民はそれを自分の街と認めたがらなかった、この映画はどこかよそで撮られたと考える人もいた。これは根本的なことである、具体的なものとは、われわれにとってそれほどに馴染みのないものなのだ、観客はもはや映像の主体ではない、誰一人そうではない。われわれは自分の所有物をただ幻影として掴むことができる、しかし、それは事物にとって外的なことだ。ありえない<私>が語るコメントはもう一度試みる、確かにこの映像の中の水門は、ただ様々な事物のうちの一つにすぎないのだと。」
http://www.viennale.at/cgi-bin/viennale/archiv/film.pl?id=167&lang=de


ネストラーについて(ジャン=マリー・ストローブ
「ネストラーが極めて詩的な映画を撮った頃。それは『水門のほとりで』から始まったが――『マホルカ=ムフ』よりも前のことで、トーメがあの非常に美しい『和解Versöhnung』で登場するよりも前だった――私はいまでもこれをニュー・ジャーマン・シネマにおける最も重要な一歩と考えている。『水門のほとりで』がマンハイムの選考委員の前に出された時、「だめだ、水門が何で話すんだ」と彼らは言った、次の『子供の作文Aufsätze』になると、「だめだ、子供たちにこんなふうに語らせるなんてけしからん」と言った、さらに『ミュールハイム/ルール』では、もうほとんど何も言わなかった。『ミュールハイム』は、当時ネストラーは溝口をまったく見ていなかったにもかかわらず、私にとって<溝口的な>映画だった。例えば『山椒大夫』の溝口だ。『山椒大夫』は最も過激な映画の一本、おそらく唯一のマルクス主義的映画であって、よく評される慈悲深い神についての映画などではない、それもあるが、正反対のことについての映画だ。『ミュールハイム』が拒絶されたのは、成長する以前から暮らしている社会によって糾弾されている子供たちを見せたからだ。
次にネストラーは二本の長編作品『Ödenwaldstetten』と『シェフィールドの労働者クラブ』を撮った――すでにそれらはもうテレビで放映されることもない。それから、『ギリシアについて』、それは極めて重要な、美学的テロリズムとも言うべき映画で、私にとってますます重要さを増している。ネストラーには政治的人脈があったと人々は言った、しかし、そんなことはない、以後のギリシアでの様々な出来事がそれを示している。群衆の叫ぶスローガンが同時録音されていないのは、みごとだった。私がこう言うのはよっぽどのことだ、なぜなら私はいわば同時録音の使徒なのだから。スローガンが彼によるナレーションでのみ言われるのは、天才的直観によるものだ。群衆が口にし叫ぶことを彼は繰り返す。いまネストラーはスウェーデンテレビのために長編を撮り終えた。『ルール地方』という作品だ。それについてはブレヒトの言葉をもってこう言うことができる、「事実の残骸の下から真実を発掘すること、すべてを見透す眼をもって特殊性を一般性に結びつけること、大きな流れの中に個別的なものを位置づけること、それがリアリストの方法である」。」*1
http://www.derives.tv/spip.php?article568

*1:Extrait d’un entretien avec Danièle Huillet et Jean-Marie Straub, "Filmkritik", 10/1968, puis in Hans Hurch, "Nicht versöhnt, Filme aus des BRD 1964-76", Vienne, 1997, Viennale.Traduction : Bernard Eisenschitz