『チェンジリング』

冒頭に「真実の物語」という文字が見えますが、この映画は「真実」とフィクションの曖昧さをめぐる物語と言えるでしょう。ファスビンダーナボコフの『絶望』を映画化した『デスペア』は、主人公が自分に瓜二つの男を殺害し、その男になり代わって生きようとするのに、主人公以外の誰の目にも二人はまったく似ていないので計画が失敗するという話でしたが、ここでは警察がまったく似ていない少年を失踪した息子と偽り母親に押し付け、マスコミに操作された世論を利用して、息子ではないと主張する母親を迫害します。5割の世論は警察を信じ、警察のでっち上げたフィクションを「真実」として受け入れます。事件の真相が明らかになり、母親の闘争を支援してきた牧師に導かれた民衆が、今度は警察を弾劾することになりますが、息子の生死は依然としてわかりません。「真実」を求める母親は、死刑直前の犯人を問い詰めますが、犯人の沈黙によって「真実」は最後までわからないままです。数年後、殺人犯のもとから逃げ延びていた一人の少年の証言で、息子の勇敢な行動を知った母親は、息子もまた無事に逃げてどこかで生きているかもしれないという思いを信念として抱き、そこに希望を見出します。この映画の時代背景となったメディア時代の到来期以降、メディアによって伝えられる「真実」には必然的にフィクションが混入しており、多くの場合そこには一片の「真実」すら存在していないことは周知のことです。そのような時代において正義は、「真実」を求めながらも、「真実」という根拠を欠いたまま、フィクションであり続けるしかないのですが、それでも「私」という枠を越えて他者と結びつこうとする行動において、フィクションは生きる希望を与える「真実の物語」となりうるのでしょうか。映画が存続する希望もそこにあるでしょう。