ヘラクレイトス

トーメがウィーン映画祭に行って街を歩いていたら、石壁にヘラクレイトスの言葉が刻まれていたという。 Denen, die in dieselben Flüsse steigen, fliessen immer neue Wasser zu und (immer neue) Seelen entsteigen dem Nass. 同じ川を溯る者には、たえず…

トーメとストローブ

ボンで映画批評を書き始めたトーメは一家でミュンヘンへ引っ越し、1964年にマックス・ツィールマンとともに『和解』を8ミリで撮り始めます。その後、クラウス・レムケの提案により16ミリで撮り直し、ローラント・クリックの短編試写会で「カイエ」の…

トーメ『哲学者』

『タロット』ではリューディガー・フォークラー演じるオットーの「川は流れる」と言う台詞に沿って映画が進行していましたが、『哲学者』の主人公ゲオルク・ヘルメスは「万物は流転する」と語ったヘラクレイトスを研究する哲学者です。ある日、『叡知への愛…

トーメ『タロット』

ゲーテの『親和力』のトーメによる映画化『タロット』でエドゥアルト役を演じたハンス・ツィシュラーは、トーメの映画を活人画と特徴づけます。流れる川のさざめきが闇夜に開かれた窓から入り込み部屋を満たす中、タロットで未来を占うオッティーリエの顔が…

レムケ・インタヴュー

クラウス・レムケがドイツラジオで尻出し抗議について語る。(聞き手・カトリン・ハイゼ、2012年2月29日) レムケ:(…)思うにオーバーハウゼン宣言以来、ドイツ映画は今日までせいぜい片手で拍手しているようなものだ。その原因は当時の若者たちが、映画館へ行…

クラウス・レムケ

かつてのノイエ・ミュンヒナー・グルッペの一人で今もミュンヘンのシュワービング地区に住むクラウス・レムケの近況。2012年ベルリン国際映画祭にて。 「アクション 死んだカーペット―ベルリン映画祭占拠―クラウス・レムケ (レムケによるナレーション)ドイ…

トーメ・インタヴュー

2009年、トーメ70歳記念に放映されたドキュメンタリー『私がおそらくもっとも得意なこと… ルドルフ・トーメの映画』(1983)収録のインタヴューより。 「小さな村からミュンヘンに出てたくさんの映画を見た。それからボンの大学で勉強し結婚して、お金を稼ぐ…

若山セツ子

『エノケンの天国と地獄』は、ルビッチの『天国は待ってくれる』を真似たのだろうが、映画自体はたいしたことない。以下の作品では若山セツ子の登場シーンと沢田研二の「君をのせて」が絶妙にマッチしている。 http://www.youtube.com/watch?v=NcdPoFO5c48&f…

『あの彼らの出会い』

「革命とは、太古の忘れられた事物に、その場所を返し与えることを意味する――このシャルル・ペギーの言葉をジャン=マリー・ストローブは、社会の未来が問題にされる時いつも用意していた、ヴァルター・ベンヤミンの革命は「過ぎ去ったものの中への虎の跳躍」…

ネストラー

写真的固定ショットが映画の断片化の方向に働くのに対して、語りや演劇的再現は、それぞれが一つのモナドとして完結しながら連結され、映画中に一定の持続性を導入します。例えばペーター・ネストラーの作品の多くでは、ある土地に根差した農民の姿が写真的…

木下恵介

木下恵介の『楢山節考』と『お嬢さん乾杯!』、どちらもとても良かった。特にトリュフォーも称賛したという『楢山節考』は、様式化された演出と浄瑠璃の音楽が心地よい。

パラジャーノフ

パラジャーノフは映画監督について、いろいろな仮装、変装、変身、擬態で大人たちを驚かす悪戯っ子のような存在として語っています。 http://www.youtube.com/watch?v=nha2Cc3rPx0&feature=youtube_gdata_player『アシク・ケリブ』について、タルコフスキー…

『I’M FLASH!』

豊田利晃の『I'M FLASH!』、カッコイイ!松田龍平が言うように、「最後に向かって全てが集結してゆく感じ」。阪本順治の『カメレオン』に引き続き、藤原竜也の演技も良かった。「神様にさよならを言う時、僕たちは海に潜る…」

小津映画のような乗合船に乗ってパステルカラーの夕空を原節子と眺める夢を見た。遠く海峡に架かる巨大な石造りの太鼓橋が入道雲の中に消えてゆく風景。

『モンスターズクラブ』

3・11の後に何を撮るのか?例えば豊田利晃の『モンスターズクラブ』における被爆した死者のようなモンスターたちとの対決。それでも地上への愛ゆえにテロリストであることを選択するモンスター。宮澤賢治の新たな読みが、東北への祈りとして捧げられます。 …

ルドルフ・トーメ

75歳のルドルフ・トーメが元気です。3月に革命直後のエジプトへ行き、壁に描かれたストリートアートの映像と画家へのインタヴュー映画をアップロードしています。このアートは、「ファラオの時代と革命と上エジプトの村落風習」のミックスとのこと。「今…

イ・チャンドン「ポエトリー」

イ・チャンドン「ポエトリー アグネスの詩」、他者を記憶するために、未知の名宛人へ向けて書かれる詩が、一人の死者を振り返らせる。忘却から私たちを守る盾である赤いケイトウ。アボジの作ったどぶろくを飲み、一升瓶を枕に眠る。

ピナとダニエル

死者に捧げられた二つの映画、『ピナ・バウシュ 夢の教室』と『ダニエル・シュミット 考える猫 Daniel Schmid Le chat qui pense』。ヴッパータールの街中で、劇場前の広場で、ヴッパー川の上を走る空中鉄道(Schwebebahn)の中で踊るタンツテアターのメンバー…

尹東柱

茨木のり子が紹介して有名になった尹東柱の詩。 行こう行こう 追われる人のように行こう 白骨に知られず 美しいもうひとつの故郷へ行こう 「わたし」が故郷へ帰ると、「わたし」の白骨がついて来て、同じ部屋に横たわった。「わたし」は白骨をそこに残して、…

『汽車はふたたび故郷へ』

イオセリアーニの『汽車はふたたび故郷へ』、いくつもの行ったり来たり、伝書鳩の往還、『歌うつぐみがおりました』への歌わない者たちChantrapasの回帰、そう言えばおじいさんの歩く姿がモンテイロそっくりだったような。それにしても、『ブンミおじさんの…

『ブンミおじさんの森』

闇の擁護者としての映画、闇の中でしか存在できないもの(幽霊、影、夢)の守護者。未来の独裁者は隈なく照らす光によって支配する。

『東京上空いらっしゃいませ』

起きたかもしれない、起きなかったかもしれない固有の過去を誰もがもっており(マルテの手記)、人生がそんな上映途中のフィクション映画で、私はスクリーンに投影された映像で、そこにはプロジェクターの回転音が鳴り響き、世界の物音はそれにかき消され、サ…

『阿賀の記憶』

『阿賀の記憶』におけるリュミエールの記憶(列車の到着、ヴェニスでの初トラヴェリング)、土地の、水の、映画の、佐藤真の、私の記憶の重層、フィクションとドキュメンタリーの境の夢、無意識のうちにフィクション化される現実。記憶=フィクションの集積とし…

フレディ・ムーラー「最後通告」

「テレビと迷信からわれらを救いたまえ」(「最後通告」)3・11以後とテレビ 国民を操作するためにテレビはどんな嘘でもつくという姿勢を、テレビ自身がなり振り構わず示したこと。 テレビはネットに敵対するということ。

ネストラー、インタヴュー

ミュンヘンの映画博物館が出しているDVDシリーズEdition filmmuseum17巻、Christoph Hübner監督『Dokumentarisch Arbeiten 1』に、ペーター・ネストラーの63分におよぶインタビューが収録されています。かっこいいです。日本語字幕あり。

ネストラー「大地の重み」

Yann Lardeauは、ペーター・ネストラー論"Le poids de la terre"で、ネストラー映画に画家Edouard Pignon との親近性を見てとり、ピニョンのこんな言葉を当てはめています。「私はしばしば抽象絵画を、大地の重みを忘れたものとして非難してきた。大地の重み…

ネストラー

ペーター・ネストラーにおけるイメージと音声の分離について。 「ネストラーは物語者ではなく再話者なのだ、それは映画に撮られる事物とのもうひとつの関わり方だ。 彼は再話者である、つまり彼は知っているのだ、彼の伝える力が、自分からではなく、事物を…

『水門のほとりで』

ペーター・ネストラー『水門のほとりで』(1962) ナレーション訳 「私は老いた水門。その端には村がある。村は映画に撮られたがっているのか、私にはわからない、堆積泥の間に死んだように横たわっている私は、鋭敏な眼差しをもつ気もないのだ。木の杭とも…

『水門のほとりで』

ペーター・ネストラー『水門のほとりで Am Siel』(1962) http://www.youtube.com/watch?v=xUPtyIbEGhg(赤坂太輔氏twitterに感謝!) ナレーション冒頭 「私は老いた水門。その端には村がある。村は映画に撮られたがっているのか、私にはわからない、堆積…

水の系譜

ペーター・ネストラー、ルドルフ・トーメがともに河(あるいは湖)の作家として、ムルナウ/フラハティに連なる水の系譜に属していることの映画史的意義が今後評価されるならば、戦後ドイツ映画の豊かさがはじめて明らかになるでしょう。ネストラーが、河の詩…